以前、カンポングラムにあるマレーのヘリテイジセンターに足を運んだことがあるのだけど、今回は久しぶりにリトル インディアを歩いた時に、インディアン ヘリテイジセンターにも足を運んだ。
シンガポールにはもう一つ人口の大半を占める中華系のチャイナタウン ヘリテイジ センターもあるけれど、残念ながら臨時休業中。ここは同じように休業中のプラナカン博物館同様に再オープンしたら是非行ってみたい場所。
センター前には土産屋さんがあって、ちょっぴり旅行気分。と言うか、リトルインディアは駅の改札を出た瞬間からいつも半ば旅行気分になる(^^♪
訪れた時はSikhs in Singaporeと題されたシーク教の特別展示中だったのです。
まずは最上階まで上がって、19世紀から現代へと観ていくことにした。
シンガポールでのインド人移民は街の幾つかの場所に定住したけれど、最も初期の人達は1830年代以前にChulia kampongに存在し、Chilia streetと交わるMarket streetの辺りは初期のインド人商人や金貸しが商いをしていたそう。
上記↑の赤い場所がインド人移民たちが定住した場所。
他の地域はタンジョンパガーの鉄道、ノースブリッジ通りの造船所、ハイストリートとアラブアストリーにはテキスタイルの商人、センバワンの海軍基地、1980年代からリトルインディアと知られているセラグーン通りエリアの住民、警備員など
展示物は数少ないけれど、宗教的な物からシルバーの食器など色々多岐に渡る。
そして、シーク教の特別展示。
シンガポールで、シーク教徒はしばしばベンガリと呼ばれてきたそうで、これはおそらく、多くのシーク教徒がベンガル州のカルカッタ港を経由して到着したと言う事実によるものらしい。
でも文化的、および地理的にもシーク教徒はベンガルにルーツを持っていないと言う。シーク教徒のコミュニティーはインド大陸の北西に位置するパンジャブ地域から来ている。
北インド、そして東アジアと西アジア、パンジャブは歴史的に旅行者、貿易業者、軍隊、宣教師にとってインド亜大陸の玄関口で、初期のインドの地図には目立つように描かれているのだそう。
西はアフガニスタン、北はカシミール、南インド、東はヒマラヤ山脈の麓にまたがり、様々な背景を持つ人々がここに定住するにつれ、この地域は文化のるつぼとなったと言う。
インド人と言えばターバンのイメージはこのシーク教徒の男性から来ていて、シンガポールでシーク教徒と聞いて真っ先に思い出すのがラッフルズホテルのドアマン。
同じシーク教徒でも職業によってこんなにも違う。
1942年2月シンガポールは日本軍に白旗を上げた。日本軍の占領時代にシンガポールの多くのシーク教徒はインドに戻ったけれど、大多数は留まり、見つけられるあらゆる形態の雇用を探した。
シーク教徒の警官、通訳、行政はなんとか日本政府の下で仕事を続けることが出来たけれど、彼らは同様の経済的困難と食糧不足にさらされたと言う。
この間にインドでの独立運動は勢いを増し、インド独立連盟のシンガポール支部はインド独立の大義の為に日本の支援を求める事を決定。
シンガポールのシーク教徒は資金を集め、軍隊を募集し、新しい軍隊への物資を組織する事によってインド人の努力に貢献したと言う。
日本人に捕らえられた元英領インド軍の数千人の軍隊もインド軍に加入した。
多くのシーク教徒が日本政府によって雇用されていたので、支払いの通貨は日本政府発行のドルだった。戦争の終わりには当然のことながら、これらの紙幣は全ての価値を失い、家族に大きな経済的苦痛を引き起こした。
シーク教は世界で5番目に大きな組織的宗教で、最も若い宗教の一つ。
15世紀後半に設立さえれたこの宗教はグルナーナク(シーク教の創設者)から始まり、10人のグルによるスピリチュアルな教えから発展した。世界で2500万人以上の信者がいるとのこと。
グルと言うと、どうしても、あのオウム真理教の麻原彰晃こと、松本智津夫を思い出してしまうけど、この真っ白いグルの説教座?祭壇?を見たらウダイプルの湖に浮かぶ白亜の宮殿が目に浮かんだ。↓
ラジャスターンを旅した時に泊まったレイクパレスはとても素敵でした。
あ~~~~旅したいなぁ~~~~~
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