ドービーゴートにあるアールデコのデザインが特徴のキャセイビルはシンガポールの国定記念物の一つ。
キャセイビルが立っているソフィア山(山と言ってもシンガポールなので丘程度)のふもとにはビクトリア朝様式の建物があったそうで、1937年にキャセイビル建設のために売却され、土地は更地に。
2年後の1939年に映画館がオープンし、後ろのメインタワーは1941年に完成。出来上がった建物はキャセイシネマ、キャセイホテル、キャセイレストランとが合わさった複合施設で、その当時シンガポールで最も高い建物だったのだそう。
第二次世界大戦初期、1941年12月ごろまで観客が減少しているにもかかわらず、戦争と言う不安な時代にリラクゼーションのために映画を上映し続けた数少ない場所の一つは、いよいよ戦争が間近に迫る中、本館を政府とイギリスのマラヤ放送協会に貸し出し、日本軍がシンガポールへの攻撃を加速すると、建物内のスタジオから敵の前進に関する最新情報を放送。
この映画館は1942年2月に少なくとも14発の砲弾で日本軍から襲われたと推定されていて、2月15日正午過ぎ、避難所として使用されていた映画館のホールにいた数人のオーストラリア人を殺したとある。そしてその日の夕方、イギリス軍は日本軍に降伏した。
シンガポールの陥落後、既存の放送施設を日本放送部が引き継ぎ、1942年3月にはそこからラジオの送信を開始。その後、彼らのプロパガンダ部門本部と軍事情報局もそこに配置されたという。今ではネットで地球の裏側にいてもどこでもニュースは即座に読めるけれど、その時代、占領から1週間後には日本語の新聞「昭南新聞」が刊行されたと言うから、その速さにビックリする。
日本の統治下でのシンガポールは密告組織を通じて、住民を厳しく監視、管理して、命令に従わない者は容赦なく体罰を与えたそうで、華人静粛と同じく、歴史本を読んでショッキングだったのは、1942年7月、軍用倉庫に盗みに入った住民8人を軍事法廷で死刑にし、斬首した後の彼らの首をポールに刺して、人通りの多いこのキャセイビル前に見せしめのために並べていたと言う事。
まるで、ドラキュラ伯爵のモデルになったルーマニアの串刺し公ことウラド3世みたいな話がここでもあったなんて・・・・・
だから否が応でもこの前を通る度に日本軍がしたこの話を思い出してしまう。
戦争とは言え、洗脳って本当に怖いと思う。
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